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気づくと27歳の頃には、ナンバー2の位置で店長として、お店をサポートしていました。
その後、順調に時は過ぎ美容師として安定した道を歩んでいました。
30歳になった時、転機が訪れました。
中途半端に店長を任されている事実にやりがいを感じなくなっており、
色々考えた末に2年後にはアンククロスを辞めようと決意。
理由としては、色々想いはありましたが、他のサロンで一からやって自分を試したかったり、
あとは、何件か店長としてのお誘いもあったからです。
32歳の12月。社長から「池袋の近くで出店を考えているのだけど、早川がやるんだったら考えるけどどうする?」と言われました。
その時は中途半端に任されていたという思いが強かったので、「いい意味で自分らしくやってもいいんだったらやります。」
とまた、生意気な発言をしてしまいました・・・
そこで思ったのが、この先のことを色々考えましたが、自分的にひっかかる部分が今まで自分についてきてくださったお客様のことでした。
今まで早川を支えてくれたお客様を第一に想い、新店舗が池袋店からほど近かい条件だったので、結局は今までのお客様もやり続けたいという想いで、新大塚のアンククロスデュオの店長を引き受けました。
32歳の4月27日。
アンククロスデュオとしてスタート。
当時は自分で探したスタッフと2人でサロンワークをこなしていましたが、すぐに1人加わり3人体制で順調な毎日を送っていました。
その時はサロンにブティックが併設されていました。
ヘアとファッションをトータルプロデュースしてましたねぇ。2年くらいでお客様も安定しサロンが忙しくなったので、ブティックは辞めて今の形になりました。
一店舗の店長としてお店を任されたときに、プレッシャーはあったけれども、気づけばそのプレッシャーや責任感を楽しめるようになっていました。
店のトップとして自分が成長していかなければスタッフも成長しないことも感じ、カット理論、ケミカルを自ら勉強し追及。デュオ2店舗の総店長としてサロン教育もこれまで学んできた美容のベーシックに疑問を感じ、自ら新しいベーシック理論を追及し勉強していきました。
当時、世はカリスマブーム。原宿や青山のサロンスタイリストが多く話題にあがっていました。
そんな中で、「池袋」「新大塚」にあるサロン、アンククロスも負けたくないと、とにかく毎日、勉強と追求の繰り返しでした。
その後スタッフの人数も増えながら、2年後には5人体勢になっていました。
この頃も技術やスタッフ教育、サービス向上を追及する毎日は変わらず、とにかく新しい提案を考えていました。
36歳、総店長としてアンククロスデュオで変わらずスタイリストの仕事に熱を上げていたころです。
突然一本の連絡が入りました。母親が倒れたというのです。
さしあたり、急いで北海道に戻りました。大事には至らなかったのですが、これから安静に生活していかなければならない状況になっていました。
その時、父親に言われました。
「帰ってきてくれないか」と一言。
親が「帰ってきてくれ」だなんて今まで口にされたことがなく、正直びっくりしました。
これほどまでに自分を必要としているのだなと実感したんです。
それから、ひたすら考えました。
親は本当に大切だし、自分は一人息子。してあげなければならないことがたくさんある。
でも、東京にも自分を必要としてくれている人たちがたくさんいるし・・・。
オーナーにも色々相談をしました。加藤氏には「お前はどうしたい?」と聞かれました。
自分の答えは3つでした。
「今までのお客様をやり続けたい」
「北海道でもやりたい」
「アンククロスデュオというサロン名はそのままでやりたい」
サロン名を変えたくなかったのは、今のお客様に気を使ってほしくなかったのと、アンククロスで出会った人たちだからです。
「そしたら自分でデュオの経営をしたらどうだ?」
と回答が来ました。
それからも色んな手段を考えましたが、悩み悩み悩んだ結果。決めたことは・・・
「独立」の二文字でした。
北海道に帰る訳にもいかないし、帰らない訳にもいかないし・・・ふと東京と北海道のサロン両方やっちゃえば??と思い立ったのです。
東京と北海道でサロンを両立して出来ればと考えました。
そのためには、自分が経営者になって身動きを取れるような状態にし、当時父親も透析をしなければならない病気になってしまい、親のためにお金も貯めないといけないと思い、独立を決意。
自分が経営者になっても、今まで通り変わらずお客様のことを考えながらやっていける自信があったからです。
ただ、父親に東京と北海道でやるのは無理だと言われ反対されました。お客様や知人にもみんなに「早川さんそれは無理じゃないの?」と言われていましたね。
でも、自分のこの性格。「無理」といわれるほどアツくなるタイプなため、「やってやろうじゃん!」と決意を固くしました。
唯一、理解してくれたのが母親でした。「それもいいんじゃないの?」と。
母親が理解をしてくれたおかげで父親も協力してくれるようになりました。
36歳の4月21日。オーナースタイリストとしてスタートを切ることが出来たのです。